Wednesday, November 19, 2008

明るいゼミ生・暗いゼミ生

明るいゼミ生がいると、法律のゼミでも楽しくなる。
物怖じしないで色々いうから、こちらも調子に乗って思っていることをストレートに出してしまったり。ただし本人はともかく横で聴いている学生が誤解しないように、後で説明するのが大変だ。
その学生も調子に乗りやすいので、高みからしかりつけたりするが、全然めげない。

大人し目の学生はそうはいかない。下手にネガティブなことを言うと深刻に受け止めてしまうから、なるべくおだてて本音を言えるようにしてやる。そんな学生が酒を飲むとガラッと積極的になったりもするのだが、最近は授業が立て込んで、また学生気質も変わってきて、ゼミ=飲み会が付きものというわけにはいかないのだ。

暗い性格の学生さんというのも、もちろんいる。暗いといっても真面目な性格で冗談とかいえるタイプでないという普通の学生と、少々性格が曲がってしまった学生さんもいる。前者は問題がないが、後者は、やはり注意して見てあげないと色々とまずいことが起きる。

一番まずいのは、教育機関たるもの、きちんと教育して送り出すという使命をその学生に施せなかったという場合で、もちろん本人が権利放棄すれば別だが、本人は最後まで卒業したいと思っていても勉強のやり方すらも分からないままになってしまったりする。

法律の教育では、ねじ曲がった法律知識を覚えてしまうというのもまずい。
今流行りの大学内麻薬汚染とか、警視ドノの酔っぱらい運転とか、逸脱行為が一方では目立つが、他方では法律を金科玉条のごとく振り回す傾向もある。法学教育はそのどちらにも陥らないためにある。
もう少し説明すると、法学教育では、法(律)の中身を学び、その法を現実の社会に適用する仕方を学ぶ。その過程で現実の社会のありようを学び、現実社会と法との整合・不整合を学ぶことになる。
法が現実社会に適合しない場合、法学部教育ではとりあえず、解釈により法をどのように適用すべきかを考えることになる。この段階で立法による改革が出てこないのは、司法と行政に携わる人々を養成するプログラムが中心だからであり、それ自体現実社会のありように適合していないわけだが、それは一応置くとする。
このように法学教育では、法(律)というもの、特に法律の条文を絶対的なものとするわけではなく、文言解釈のみにこだわることもない。かえって立法趣旨とか、法の基本理念とか、正義公平とか、そういった価値観が尊重され、法律の解釈にも縮小解釈・拡張解釈、反対解釈・類推解釈が駆使されることになるし、条文のない法理が出てきたりする。

これがねじ曲がって理解されると、法律に何が書いてあっても知ったことではないという独善的な解釈に陥ったり、結局法律の文言はともかく現実は違うといったシニシズムに陥ったりする。もっとプリミティブなのは、ばれなきゃ良いという態度だろう。
ちなみに現実に適用することが困難な法を闇雲に作ったりすると、このシニシズムを助長する。その典型例が個人情報保護法であり、公益通報者保護法なのではないかと思うのだが、どちらも立法目的は良いだけに残念である。

それはともかく、法学教育の目標は、法律の知識を習得するだけでなく、その解釈適用を通じて現実社会への反映を目指し、逆に現実社会のありようを踏まえて法の内容自体を具体化していく作業ができるようになることである。この点から、金科玉条のように振り回す人物はまともな法律家とはいえないし、逆に法的シニシズムも法学教育の失敗例である。

ゼミ生の話に戻ると、明るいか暗いかを問わず、このような法学教育がきちんとできることが望ましく、そのためには反応がストレートに出てくる明るい学生は扱いやすいが、何を考えているか分からない学生はどうも不安になるのだ。

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