Tuesday, October 28, 2008

弁護士と二人で飲む

先週末に、大学同期の弁護士と二人で飲みに行った。
各種の会合で顔は合わせることがあっても、サシで飲みに行くのは久しぶりである。

しかし話題は昔の思い出が終わるとロースクールと弁護士会の内部事情、それに裁判員制度、要するに司法制度改革ネタである。
裁判員については、今朝のニュースで最高裁長官人事をいきなり東京高裁長官から直接任命するというらしく、しかもそれが裁判員制度導入シフトなのだと言うから、驚きだ。
最高裁長官は大法廷以外の裁判をしないが、下級審でも最高裁でも裁判経験が乏しい人が憲法判断や判例変更の当否判断を主宰するというところに大きな不安を感じる。日本ではウォレン・コートのような、長官のキャラの立った司法ではないということか。

さてロースクールは今後どうなっていくだろうか?
弁護士さんたちが一般にロースクールを非難するのは、その教育能力の低さにある。それは教育内容方法ともに問題がある。
内容的には、学問としての法律学が実務教育に必要なコンテンツと齟齬を来しているという点であり、その間の調整が十分なされないままスタートしてしまった難点がある。
齟齬というのは、例えば18世紀の犯罪学に精通した学者が現在の因果関係論を講じるといったことではなく、理論的な正確さや一貫性と判例実務の間にあるソゴである。そこを接合しない勝手な理論は、実務家教育の内容として相応しくない。もちろんだからといって学生諸君にありがちな、判例といわれているところにべったりで何でもすませようというのが良いわけではない。判例といっても事案を離れて一人歩きしたものは一つの学説にすぎないし、事案が違えば別の解決がありうる。
理論に裏打ちされた一貫した法の理解は欠かせないが、同時に判例の解決を無視した理論は空論であり、その架橋が必要である。

個々の教授が教える内容も、この架橋を踏まえた内容であるべきだが、伝え聞く授業内容は必ずしもそうでないようである。

教育方法面では、過剰なソクラティックメソッドから学生も教員も楽な一方的講義方式に揺り戻しているようだ。
しかし双方向授業というのは別にソクラティックメソッドだけをいうものではなく、むしろ典型的なソクラティックメソッドは効果が乏しいと、アメリカ人もいう。
そうではなく、必要な双方向性とは、インプットしたものを適切にアウトプットする機会が確保された授業であり、また限られた授業時間内で学習効率を高めるのに必要な予習復習の機会を与えることである。

そうした方法は難しいことではないが、手間はかかる。その手間をかけるには、少人数教育は欠かせない。あるいはチューターとの連携が必要だ。

こうした内容方法両面での教育能力を高める必要が、ロースクールには求められているのだが、今の改革方向はどうも明後日の方向ではないかと思われてならない。

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